ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション

13年の積み重ねを感じる映画だった。シリーズ七十数話分と映画二本分とメディアミックスで殴られるような構造なので、自信を持ってその一文を書ける。

不穏な演出は本当に重く、二人の少女の心が安定していくシナリオと開放感がシンクロしている。見る人によって受け取れる要素はそれぞれ違う多重的な作りかただけど、ドラマの印象は力強く一致するようになっていて、本当にすごいと思う。以上要約。

編集と多重構造

久しぶりのミーシャや初めて登場するバンクスは、編集の力について語る。マスメディアやあらゆる報告書は編集し、編集されることで、あったことも無かったことに変えられるという一般論。こういった会話は何となく文脈から切り離されて色んな意味を持っているように聞こえる。

会話の通り隠蔽する社会の話に聞こえる、また映画などの制作論にも聞こえる、インタビューを受けても編集されて伝えたいことが伝わらなかったりした経験談にも聞こえる。アス比4:3のフレームが表示されたモニターの前で今この作戦を採る意義を問う。準備が不十分であってもベストをつくすしかないと語る。出現している「エウレカセブン」は不完全だとデューイは言う。大人たちがストーリーに合わせて語る台詞は、今まで目にしてきた作品への評判や制作の意気込みの言葉に重なって響く。

一方ダイブ先の世界でアネモネは勝ち続ける。倒した相手の叫び、何か隠しているようなドミニク。どう見てもデートっぽいことになっていたりしてちょっぴり楽しそうだけれど、アネモネ自身もあまり後味がよくない様子。演出は不穏だ。再生されるテレビ版のエピソードは基本主人公であったエウレカ側の勝利エピソードであったが、「スタート・イット・アップ」や「モーニング・グローリー」も全力で不穏な空気にひっくり返っている。このあたりもストーリー上の揺さぶりと、過去作を知っている視聴者への揺さぶりで二重の構造になっている。

劇中でエウレカがすがりつく夢の再生、テレビシリーズのベストエピソード群、二段重ねになっている希望のPLAY BACKを妨害されてエウレカはいよいよキレる。多重進行は一端ここで統合されてドラマのパワーが増していく。ドキドキする。

二重三重に意味を乗っけられるのは脚本が計算されていて軸がしっかりしているからだろう。スカブ宇宙を「編集」し続けているエウレカの存在の前振りとして編集論が活きてくる。スマホの画面に父を想いながら過ごしていた風花が、スマホの画面に娘を想う父を知るという枠。その枠に囲まれながら語られる人類が無謀な戦いを続ける理由や、父が娘に説いた心得は、クライマックスのエウレカとの対話でしっかりと答えを出すアネモネへとつながっていく。

初見で出来るだけ読み取ろうとして頭がパンクしそうになるが、「考えるな感じるんだ」という『ポケ虹』でも聞いたようなドミニクの言葉通り、感じざるを得なくなるほどに演出は力強い。多重的な意味を持つ展開を貫いて足並みを揃わせている。アネモネにフラッシュバックするレントンの映像に心打ちぬかれる感じになるのである。

初見の人、何となく追ってきた人、好きで追ってきた人、それぞれのレベルで言葉と映像を投げながら、脚本と演出、そしてなにより隠し玉の挿入曲と壮大な劇伴でまとめあげた、すごい映画だったと思う。

断章

「無かったことにはできない」は問題を受け入れていくシリーズ全体の方向性でもあるけど、クォーツ・ガンが入ってきてからのAOでよく耳にしていた台詞だ。トリトン号、ポセイドン号、ゲオルギオスのネーミング、京都の国際会議場、AIの活躍、現代寄りでポリティカルな世界観、あとAOでよくあった「勘違い要素」もエウレカが持っていて、全体的にAOオマージュなんじゃないだろうか。あとデューイの何かと融合して人間やめてそうな感じもトゥルースを思い出す。

ミーシャの「私たちの過去を取り戻しに」が印象に残っている。バンクスが手振りをしながら「グレッグ・ベア・イーガン」っていうところが好き。

ドミニクの鈍感さはAIに置換できる。

ダイブした風花・アネモネの戦闘シーンは、新規の石井・風花と流用の激情的なアネモネの差がどうしても気になるにはなるのだが、むしろコマンド入力で技を発動し攻撃ムービーが流れるゲームっぽいなあと思ってしまった。実際ゲーム形式だしその後に「ゲームのようだ」と揶揄していた政治家もいたのでその印象でいいのだろう。

思えばテレビシリーズで負け続けていたアネモネは、今回エウレカが味わっている妨害される側の心理だったんだろうなあ、悔しかったろうなあと立ち位置が逆になって改めて思ったりもする。大河ドラマなんかで徳川視点か諸大名視点かで物事の印象が反転するような…いや歴史ものでは思わないか…

コクピットをthe ENDが破壊した直後のシーンはアクペリエンスした直後の心象風景だろうか、直前のレントンエウレカをかばって移動してるからシーンが繋がらなくてちょっと混乱した。

エウレカの行動は「リセマラ」と呼べばまあ情緒がないけど、中断して失敗する物語の数々が積み重なっていく『冬の夜ひとりの旅人が』を思い出した。

感覚としては4:3の不確定な世界の流れを16:9の世界に定着させてレントンを生き返らせようとしているのかなと。そしたら16:9世界で犬に追われて走っているレントンの記憶は4:3になるかななんて。アドロックと飛んで行ったクォーツ化したシルバーボックスはどうやって手元に戻ってきたのか。

エウレカの「アネモネちゃん」呼び!この二人のしっかりした会話が描かれるのは確かに今回が初なんだけど、テレビシリーズでもゾーン内の空間で何度か出会っているわけで、そう思うと情報空間で出会うというコンセプトまで継承しているんだな。空から降りてくるアネモネは最終回のエウレカを迎えにきたレントンと同じような動きだなあと予告で使われてて思っていた。

ビオランテですよね?ガメラですよね?ガメラvsビオランテだこれ。今回の戦闘シーンは動vs静の構図だったように思う。

妄想代理人』や『パプリカ』風味を感じる。

ラーゼフォン』あんまり覚えていないけど見直した方がいいのかな。

エンドロールの長さ。シリーズの他の作品であったり、ボンズ作品であったり、監督スタッフの作ってきた人脈が見えてスタッフロールって面白いなってなる。

恒例の「つづく」と次回予告ないのが意外で、館内も「あれ?」という空気だった。スケジュールに余裕がなかったとも聞く。よく考えたらテレビシリーズは詩篇もAOも最終回の予告放送されてなかった気がするから、ある意味で恒例だと言うこともできるかもしれない。

来年三部作が完結、月日の経つのは早い…。テレビシリーズから14年。レントンと同じ14年。これを狙ってたのかしら。

交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1

西暦2315年。12005年だった超未来から未来程度まで時代が引き下げられていて、冒頭の描写からするとひょっとしてスカブの侵攻も時代に合わせてあんまり進んでいない設定?いやいや司令クラスターはせりあがってきたしテレビと同様に地表は覆われていて…と混乱して早々と考えるのを諦めたのは、全力の戦闘描写に圧倒されて、ぽつぽつと出てくる情報を気にしていられなかったからである。

戦闘中のカウントダウンの読み上げも劇伴の一部のように聞こえて、あのままサントラに入ったりしないかなと思ったり。予告編の段階でライブ会場みたいなレーザーの出し方してるな…と思っていたシルバーボックスは、フェスがモチーフだとインタビューで語られ納得。納得して蓋を開けてみればマジで直球そのまんまか!と突っ込んだりした。

スカブとは人型コーラリアンとは何なのか、そもそも何がどうしてどうなったのか、テロップで解説は表示されているがシリーズ初見の人には分からないんじゃないだろうか。ただ実際分からなくてもドラマには問題ないだろうし、レントンも登場とともにどうでもよさげにバッサリ切り捨ててくれている。

じっちゃんがいないと口が悪くなってしまうのか、同じようにレントンの疾走から始まる『トレインスポッティング』へのリスペクトが強くなったのか、と色々考えさせられるモノローグのトーン。テレビシリーズだとレントンに寄り添いつつも、丸っきりレントンの視点というわけではなかったから、楽しいこと全然ない時期と状況ならこんな感じに胸中愚痴っていたかもしれない。

10年間でホランド拗れすぎじゃないの、エウレカはなんで溶けたのというのも、TVシリーズを見ていれば察せることではあるけど、これもレントンが知ったことじゃないから本作では不明とバッサリ大胆な感じ。物語の進め方として作り手が視聴者に対して謎の部分を作っているというのを、主人公の主観オンリーで謎な部分があるというのにがっつり変換した感じか。いや、それにしても新規映像のホランドから急に回想ホランドに行くと「拗れすぎじゃないの」ってなるわ。

力の入ったネクロシス作戦のシーンから急にTVシリーズの画面に突入していくのは、だんだん慣れてくるとはいえその差に大丈夫かなと不安になる。モーニング・グローリーに至るまでの長い溜めの展開であったどんよりした話たちも相まって、理屈の上では問題ないものの雰囲気は沈み込んでいく。

海外試写会のコメントや主題歌のMVで時系列シャッフルがあることは分かっていたから、画面を平均的にするために映画全体で10年前と現在を混ぜまくるのではと思っていたけど、そんなことはなかった。クオリティのためではないこのシャッフルは何のためにやっているのかと考えると、どう切り繋いでもどんよりとなりがちな流れを映画終盤に向けて上向きにしていくための仕組みだろうか。

ロボやヒロインといったサクサクした要素が10年前パートに固まり回想パートはしっとりしているというバランス。バッサリいった部分の行方。流れが断ち切られていることは確かなので面食らうシャッフル。この3点が鑑賞にあたって人を選びそうだけど、エウレカそのものが人を選ぶシリーズなので「らしい」とも言えるだろう。たぶん好きなはずのに人を選びそうな部分を探してしまう煮え切らない性格よ。「最高!」とか「全然ダメじゃん」とかはっきり喜んだり怒ったりできる人がちょっとうらやましくなる。

ディファレンシアで登場した町の名が『赤毛のアン』関連に変わっていたのは孤児が養子になる話繋がりだろうか。他の小ネタはクリムゾンキングの宮殿のウォールアートがハードフロアのアルバムに変わっていたりとわりと控えめ。と思っていたところであの次回予告。

ポスターもあったし信憑性は高いな。